33年間、物理の教師を続け、ふとしたきっかけから、ビジネスコンサルタントに転身しました。
教師だった時代、得意だったのは、不登校の子たちの、笑いのツボを探ること。
心の底から笑える時、もう、心配はありません。
田舎の小さな和菓子屋の、上下に16歳離れた6人きょうだいの、真ん中辺りの次男として生まれました。
自分は、あまり豊かではないけれど、夢のあるこの家庭を、選んで生まれてきました。
斎藤一人さんの仰る、「子どもは親を選んでやってくる」という言葉がそのまま当てはまる体験を、記憶に残したまま生まれてきました。
小5の夏、クラス内のグループから弾き出され、担任からも嫌がらせを受けて、小6の初夏まで不登校を体験。
クラスの誰にも認められない、恐ろしさを知りました。
ソロバン塾も、算数の塾も、待ち伏せが嫌で、やめました。
日曜日が待ち遠しくて、サザエさんが終わるのが、つらかった。
家の裏の線路で、レールを枕に大の字になって、汽車の音がするたび飛び起きて、泣きながら家に帰ります。
今日こそはと決心したら、工場(こうば)にいた父に気づかれ、泣きわめきながら家に連れ戻され、叱られました。
父親に叱られたことは、むしろ、うれしかった。
父親は、自分を気にかけてくれている。
ある日父親は、家族ぐるみで親しくしていた知り合いから、少年少女文学全集の全巻をいただいてきました。
私は、その中にあった、ホフマンの「くるみ割り人形とねずみの王さま」という童話に心を奪われます。
6年生になり、くるみ割り人形のしくみを作図したら、父がほめてくれました。
「くるみ餅を作る時に、あったら助かるな」
私と父はなぜか、爆笑しました。
父親は、禅宗の人でした。
3歳の妹から、自分にそっくりと言われた、くるみ割り人形の絵。
作図はできたけれど、作る方法がわかりません。
私は次の日から、学校に通い始めました。
算数が絶望的にわからなくなった。
算数の不安を、数学が苦手な言い訳にしました。
設計と制作のできる人になりたかった。
なんとか取り戻して、理系に進んだ理由は、この辺りにあります。
環境が大きく変化し、高校卒業後、印刷会社に勤めました。
大学を勧められて、夜間の物理学科を、5年かけて卒業しました。
その後、高校の教師になり、不登校の子たちとの、出会いを果たします。
私は、その子たちが笑顔を取り戻す方法を、なぜか知っていました。
ただ、言葉のタイミングを測るには、私自身を基準にするしかありません。
面談をした次の日に、それまで不登校だった子が、学校に来ました。
ずっとそうだったように、楽しそうに、明るい笑顔で、友だちと話している。
これまでと違うのは、その子が、本当の自分らしさに、気づいていることです。
ずっと悩み続けた子どもたちが、答えを出すのには、一週間も、かかりません。
死に直面した子が、心から笑い出すのは、どんなときなのか?
私が、小さな命をかけて学んだことを、いま、ビジネスの世界に、役立てています。