Rechard von Volkmann-Leander(ぴのすけ訳)
あるところに、ほかの子どもたちとは少し変わった、とても小さくて青白いひとりの女の子と、やさしい母おやが住(す)んでいました。
女の子と母おやが外(そと)に出かけるたびに、まわりの人たちは、ひそひそとささやくのでした。
小さな女の子は、なぜまわりの人たちは、わたしたちをめずらしそうに見るのかと、母おやにたずねました。
女の子はなるほど、とおもいました。
ある日、むすめと母おやが外からかえると、母おやは女の子をだきしめて、なんどもキスをしながら、こういいました。
小さな女の子は、なぜまわりの人たちは、わたしたちをめずらしそうに見るのかと、母おやにたずねました。
しばらくして母おやは、とつぜん、おもい病気(びょうき)になり、9日目に死んでしまいました。
彼女(かのじょ)の夫(おっと)は、かなしんで、いっしょに死にたいと思いましたが、そんなお父さんを友だちはなぐさめ、たちなおるのをたすけてくれました。
彼女(かのじょ)が亡(な)くなって一年がたったあと、夫は、まえの妻(つま)よりもきれいで、わかくて、お金もちの妻をむかえることになりました。
しかし、彼女は、やさしい人ではないようでした。
母おやが亡(な)くなったあと、女の子を外(そと)につれて行く人はいませんでした。
彼女はへやのまどのちかくに、一日中すわっていました。
一年のあいだに女の子の顔(かお)はますます青白くなり、まるで成長(せいちょう)がとまったようにみえました。
あたらしいお母さんがきたとき、女の子はかんがえました。
彼女は太陽がほとんど入らないせまい小さなへやに住(す)んでいました。まどのちかくにすわっても、彼女に見えるのは、ハンカチほどの大きさの青い空の小さな部分だけでした。
新しい母おやは、朝と午後に毎日(まいにち)さんぽにでかけました。
新しい母おやは、彼女のほんとうの母おやよりも、ずっときれいでカラフルなドレスをきてでかけました。
しかし、新しい母おやは、小さなむすめをつれて行くことはありませんでした。
あるとき、新しい母おやがさんぽにでかけるよういをするのをみて、小さな女の子は勇気(ゆうき)をだして、つれて行ってくれるようにおねがいしてみました。
ところが、新しい母おやは、こたえました。
「おかしなことを、いわないで!私があなたと一緒(いっしょ)にいるところを見られたら、人はどう思うでしょうか?あなたのせなかには大きなコブがあるのよ。そういう子どもたちは、さんぽにはいかず、いつも家にいるものです。」
それをきいて、女の子はなにもいえなくなりました。新しい母おやがさんぽにでかけると、女の子はイスにのぼり、じぶんのせなかを鏡(かがみ)で見たのでした。
女の子のせなかには、たしかに、大きなコブがありました。
それから女の子はもういちどまどのちかくにすわり、通りを見おろしました。
ほんとうのお母さんが女の子をさんぽにつれて行ったときのことを、なつかしく、思いだしたのです。
それから女の子は、せなかのコブのことについて、もういちどかんがえました。
女の子は、ひとりごとをいいました。
夏(なつ)がすぎ、冬(ふゆ)になると女の子はますますよわくなり、窓(まど)のそとを見ることもできなくなって、ベッドにねたきりになってしまいました。
スノードロップ(マツユキソウ)に、さいしょの花の芽(め)が出るきせつになりました。
ある夜(よる)、女の子のやさしい母おやがまくらもとにあらわれ、すべてが金色(きんいろ)にかがやく、天国(てんごく)のことを、はなしました。
つぎのあさ、女の子はベッドのうえで、死(し)んでいました。
「なかないで!」新しい妻はいいました。
「女の子はようやく、しあわせを見つけたのだから!」
夫はひとこともいわずに、うなずきました。
小さな女の子が埋葬(まいそう)されると、まっていたように、白鳥(はくちょう)のような大きな羽根(はね)をもつ天使(てんし)があらわれました。
そして、女の子のお墓(おはか)のそばにすわり、まるでドアのようにノックしました。
女の子は目をさますと、天使はいいました。
しかし、女の子はかなしそうに、せなかにコブのある子どもが天国に行っていいのどうかを、たずねました。
女の子にとって天国は、うつくしすぎて、とおすぎて、想像(そうぞう)もできなかったのです。
しかし、天使(てんし)はこたえました:
彼(かれ)は、まっしろな手で、女の子のせなかをさすりました。
するとどうでしょう。みにくいコブが、たまごのからのようにわれて、おちていきました。
そして、その中にあったものは?
ふたつのうつくしい、まっしろな天使(てんし)の羽根(はね)でした!
そして女の子は羽根をひろげると、まるで飛び方(とびかた)をしっていたかのように、天使といっしょに太陽(たいよう)の光のさす、たかく青いそらに天に飛びたったのでした。
天国の、いちばんたかい場所(ばしょ)に、彼女(かのじょ)の良い母おやが、すわっていました。
そして小さな女の子は、母おやの伸ばした腕(うで)の中に、すっととびこんだのでした。
おわり
このお話は、ドイツのレアンダーという人が、遠くに住んでいる娘さんたちに贈ったお話の一つで、当時(とうじ)知られていたお話を書きなおしたものだそうです。
ぼくは、この物語を、小学生のころに読んで、こう思いました。
高校生のころ、マラソン大会の練習で、朝早く街の中を走ったことがありました。
朝の5時を少し回ったころです。
ひと気(け)のない道で、遠くから車椅子(くるまいす)を押してくる女の人を見ました。
ゆっくりと、散歩をするような速さで歩きながら、近づいてきます。
朝の5時に、散歩をする理由は?
ぼくはとっさに『天使になった女の子』のことを思い出し、走るペースをゆるめました。
車椅子の中にどういう人がいるのか、遠くて見えません。
ふだん寝(ね)たきりで、なかなか外にでられない子どもかもしれない。
だったら、なにか元気(げんき)づけてあげられるひとことを、かけてあげたい。
だけどぼくには、あいさつしかできない、
10メートルくらいに近づいたとき、ぼくは言いました。とびっきり明るく、とびっきりまじめに聞こえるように!
女の人も、あいさつをかえしてくれました。
車椅子の中にいたのは、やっぱり、子どもでした。
でも、その子があいさつを返してくれたか、わかりません。
その次の日も、同じコースを走りましたが、もうその子に会うことはできませんでした。
朝の5時に散歩をしていた理由・・・
世の中の人が、否定的(ひていてき)にものごとを考えがちだからではないかな?
もっとさまざまなことで、肯定的(こうていてき)な考え方をするようになったら、明るい太陽の下を散歩できるのではないか・・・
否定的(ひていてき):それは良くないと考えて、みとめないこと。
肯定的(こうていてき):はればれしい気持(きも)ちで、みとめること。
そんなことを、考えました。