ぼくが小学5年生の、あれはもう冬に近い秋の日だった。先生から教わった遊びが、とても役に立ちそうに思った。風船にこんな使い方があるとは、おどろきだ。
ピンと張ったタコ糸にストローを通し、ふくらませた風船を貼りつける。手を放すと、風船は糸に沿って、すっと滑る。
休み時間、僕は教室の窓から、深い谷の向こうを眺めながら、ある作戦を考えた。
1.ぼくの弟
シホロカベツ川はアイヌ語で、大きな後戻りする川。その曲がりくねった川の向こうにぼくの家がある。
外はどんよりとした曇り空。その2階の窓から、弟はきっと今も、こっちを見ている。いまごろは、雪虫がきたのに気付いたかもしれない。
弟は3年生。みんなは病気だというけれど、ぼくは信じていない。どこかのスイッチが、切れているだけなんだ。
病気でもない弟がいま、なぜ家にいるのかと言うと、ぼくが今朝、布団から引きずり出すのに、しくじったからだ。
力では、人は動かない。人は、心が動かすものだから。
作戦の目的と、目標
「目的」と「目標」って、違うものらしい。
「作戦の目的」は、谷をはさんで両側にある、学校と家とをタコ糸で結ぶこと。
「作戦の目標」は、思いつく限りの変な物を、向こう岸の弟に送りつけること。
なんだか「タコ糸で遊びたいだけの人」みたいだ。逆にしてみる。
「作戦の目標」は、谷をはさんで両側にある、学校と家とをタコ糸で結ぶこと。
「作戦の目的」は、思いつく限りの変な物を、向こう岸の弟に送りつけること。
「目標」より「目的」の方が、ぼくの心に近づいてくる。そしてぼくにはもっと心に近い「目的」がある。思いつく限りの、変なものとは?
例えば授業中に描いた、ぱらぱらマンガ。それならぼくは、毎日だって送れる。学校がこんな面白い物を作るところなら、弟は学校に来たくてたまらなくなる。
あとは、どうしたら風船が遠くへとどくのか、実験をしなくては。放課後まであと少し、鉛筆を握り、目では先生の姿を追いながら、頭では家のなかの材料のありかを思い浮かべていた
3.風船ロープウェイ
家に帰ると、弟を連れ出して実験をはじめた。ぼくの家は雑貨もある小さな菓子屋。生活に必要な物は、みんな手に入る。
店番の母さんから、タコ糸と風船、セロハンテープ、そしてストローを二本もらう。一本は半分に切ってくれた。
ぼくの家のウラには、近所で人気のブランコがある。
近くの鉄工場の高橋さんに、父がたのんで作ってもらったのだ。そこの娘さんは読書が好きで、読み終えた本をたくさん頂いた。リヤカーが必要なほどの童話がつまった小学館の少年少女世界文学全集を、ぼくは肌身離さず持ち歩き、イジメに耐え抜くことができました。いまも感謝しています。
弟をそのブランコに座らせてタコ糸のはじっこをあずけ、ぼくはもう片方を結びに行く。うらの畑を通り抜け、南北に伸びる柵のない線路を渡り、三メートルほどのガケを登って、電柱にタコ糸をすこしゆるめに結びつける。リボン結びは6年生になって覚えたので、このときは強く引くと二度とほどけなくなる、玉結びだった。
その柵のない線路を汽車が通るのは、一時間に一度。弟はその線路を、にくんでいる。
4.キューピッドちゃん
家から二百メートル南の、鉄工場のすぐ手前に、新しく遮断機のついた踏切がある。その近くに、仲の良い男前の3兄弟が住んでいた。
上の二人は、僕と弟の同級生の一郎と二郎。その下のおチビの三郎。上の一郎はぼくと同じクラスで、目立たない子。面倒見の良いお兄ちゃんだ。
弟のジロちゃんはただものではない。街の人気者であだ名は『縁結びの神さま』またの名を『キューピッドちゃん』といった。
「あなたとあなたはケッコンでしゅよ。さあケッコン、ケッコン。しわわせは歩いてこないんでしゅよ。」
まるでホウキで掃いてチリトリに入れるように、何組ものカップルをまとめる。
こんなにいまいましい、じゃなくて、こんなに頭の良い幼稚園児に、出合ったことがない。そもそも、そんなセリフをどこで憶えるのか。
弟の結婚相手は、向かいの白い家の、ぼくが片思いしてた可愛い女の子だった。
「さあ、ケッコン、ケッコン」
ジロちゃんのいつもの言葉に、店のお客さんたちが野次馬のように取り囲んで、完全に祝福モードになった。
ぼくの初恋はこんなふうに、残酷な終わりをむかえました。
5.しわわせは歩いてこない
一人だけ笑っていないぼくは、すぐにジロちゃんの標的になった。僕にあてがわれた結婚相手は、ジロちゃんの兄の一郎。おいおいこれは男同士だろ。しかし、だれも止める人がいない。
「さあ、ケッコン、ケッコン」
ぼくらは大歓声と、大爆笑のなかで、結ばれた。日本は昔から、ゲイのカップルも祝福される社会だったのかもしれません。
そういう、むちゃな結婚ばかりではない。
キューピッドのジロちゃんは、すでに結婚している夫婦を間違えることなく見つけだし、もう一度結婚をさせる。昔は、結婚式を挙げていない夫婦も多かった。
「あなたとあなたはいいご縁でしゅよ。さあケッコン、ケッコン。しわわせは歩いてこないんでしゅよ。」
うちの父さん母さんも、実は『初めての結婚式』を、照れくさそうに挙げてもらった。
「さあ、ケッコン、ケッコン」
しゃべりすぎてかすれたオバサンみたいな声が、みんなの耳に残っている。
6.夕暮れ時
ジロちゃんが1年生になってまもなくのこと。もみじの赤い葉っぱが落ちはじめるころだ。
三兄弟が、いつものようにうちの店先で遊んでいた。
弟が「もう少しいい?」と言って三兄弟を引き止めたあと、お客さんが途切れなくなり、ジロちゃんの仕事も途切れなかった。
ぼくの母が「家まで送っていくから帰ろうね」というと、それを振り切って、一郎たちは三人で帰ってしまった。
母は「やっぱりついていこうかな」という。
しばらくして、救急車の音が聞こえた。
母はぼくたちに「家にいなさい」と言いのこして、踏み切りに向って駆け出した。
7.特急列車
その帰り道、ジロちゃんは、家には帰らず、天国に行った。町全体が悲しんだ。
黒い額縁の中に、大きな口を開けて笑う幼い子の笑顔。もう写真でしか見られないとは、信じられない。弟は泣き続け、しゃくり上げる声が数日後にも聞こえた。
「特急列車が来たんだ。」一郎の言葉を、みんな信じた。神さまがジロちゃんを迎えに来るとしたら、それは特急列車に違いない。
だけどぼくは、このお話を書いていてたった今、気がついた。
あの田舎の単線の線路に、特急列車は走らない。
そんなことは、みんな知っていたはずだった。しかし、あの子を天国に連れて帰るのなら、特急列車の、指定席でさえつりあいがとれないことくらい、みんな分かっていたんだ。
弟の声が出なくなったのは、そのころからでした。
8.電柱の玉結び
僕はガケの上の電柱に、タコ糸をゆるめに玉結びした。玉結びなので、強く引くとほどけなくなる。
ガケを降り、線路を渡り、畑を横切って、ブランコで待つ弟から糸を受け取った。
ブランコの支柱のAの字の、ちょうど股下の高さの横棒(何年か前にそれはぼくのへその高さにあり、消防士のまねをして棒を滑り降りてえらい目にあった)の上に立って、タコ糸をしっかり結ぶ。
おっと違った。ストローを通していない。ぼくも弟も、深いため息をついた。固い結び目を必死でほどき、ストローを通して、結びなおした。
僕は、風船の吹き口に、短く切ったストローを差してテープを巻いた。そうすれば、吹き口がブルブルしないで、スピードが出ると思った。
ストローごと吹き口をくわえて風船を大きくふくらませ、タコ糸にとおしたストローに貼り付け、手を放す。
「ピョーーーー」遠くで汽車の、汽笛の音が聞こえた。
9.証拠
線路には汽車が来ることを、忘れていた。
電柱との間に結ばれた、タコ糸を見る。タコ糸はちょうど、煙突の高さだ。
機関車が、あぶない。こんなニュースが、心の中に思い浮かんだ。
『機関車の煙突がこわれ、運転士がケガをしました。現場近くの電柱から、タコ糸が見つかり、近くにいた小学生が逮捕されました。』
まずい。電柱に証拠が残る。ぼくは幼いながらに、どうしたら証拠がなくせるかを考えた。
機関車は、あの踏み切りに差しかかったばかり。まだ間に合う。
想像してみる。畑を駆け抜け、線路を越え、ガケを登って電柱の結び目を…ほどけない。
僕は両目をおおった。汽車がくるまでにほどく自信はなかった。僕の人生は、終わった。もう、弟とも、お別れだ。
汗だくの手をズボンでふいて、弟の手をにぎりしめた。
10.機関車とタコ糸
機関車は見たこともないゆっくりな速さで、近づいてきた。
運転士さんと、目が合った。止まってくれると思った。ぼくは「ごめんなさい」と叫ぶつもりだった。しかし、運転士さんは目をそらして、すぐに前を見た。
D―51の煙突はスローモーションのまま進み続け、タコ糸に達した。
「あああ!」
となりで鈴の音みたいな声がした。なつかしい声。弟か?
タコ糸はゆっくりと『く』の字に曲がり、ピンと張りつめるまえに、ふっと、ゆるんだ。
機関車は、ゴールテープをはらうように、去って行った。
ぼくは泣いている。
泣いている場合じゃない。証拠を隠さなきゃ。
きっと運転士さんが告げ口をして、ぼくを捕まえに来る。早く結び目をほどいて、みんな片付けて、お母さんのところに行きたい。
弟とつないでいた手を放し、ガクガクするひざを押さえて、よろよろと走りだした。
畑を横切り、線路を渡って、ガケを登る。
11.結び目
ここから先は、ぼくがまだ、気持ちの整理ができていない。
ぼくがガケの上の電柱にたどり着いたとき、そのタコ糸は、結び目ごと、なくなっていた。あの機関車につよく引かれたら、ほどけないはず。結び目のところで、切れたのかな?
ぼくは必死で探した。
ガケをおりて、機関車の進んだ方に歩いていくと、線路のそばにタコ糸の先を見つけた。結び目で切れても、結び目は残るはず。でもそこに、結び目はありません。
ブランコに戻ると、弟は、にこにこしている。
「ジロちゃんが、ほどいたんだよ。」
1年生になって始めて聞いた、弟が話す声だった。鈴の音のように、きれい。もっとその声を、聞いていたいと思った。
「なんで、ほどけたこと知ってるの?」
弟は、ただにこにこしている。ぼくは自分がどうして泣いているのかを、思い出した。
「何があったの?」
鈴の音は、こう言った。
「ありがとうって、言わなきゃ。」南の空に向かって、手を合わせた。
どんよりとした曇り空の南がわに、ぽっかりと青い空が顔を見せている。ぼくもはっとして、手を合わせた。
「実験が、失敗だったけど、成功でした。見守ってくれてありがとう!」
雪虫が一匹、その小さな青い空の向こうに、飛んでいきました。
おしまい。